このページでは、"僕シマ"に掲載されている「海士の人インタビュー」、つまり海士町に実際に移住した人であったり、農家さん、さらには町長といった方々のインタビューをWeb版で読むことができます。
まず一人目は、2006年に海士町へIターンし、教育委員会にて「人づくりからのまちづくり」を推進している岩本悠さん。現在は、島唯一の高校を基点に、地域起業家的人財を育成する新コースや学校-地域連携型公立塾の立ち上げ、全国から多彩な能力や意欲ある生徒を募集する「島留学」の創設など、地域をつくる学校づくりに取り組んでいます。
いわば"攻め"のキャリアを持って海士にIターンした岩本さんに、海士に移住して仕事をすることの実感を聞きました。(聞き手:阿部裕志)
プロフィール
岩本悠(いわもと・ゆう)
1979年、東京都生まれ。学生時代にアジア・アフリカ20ヶ国の地域開発の現場を巡り、その体験をもとに『流学日記(文芸社/幻冬舎)』を出版。印税でアフガニスタンに学校を建設する。卒業後は、ソニー(株)で人材育成等に従事する傍ら、全国の学校で開発教育・キャリア教育に取り組む。2006年より、海士へ移住。
島外から来た生徒と島の生徒の協働で考えた観光プラン「ヒトツナギ」が第一回観光甲子園でグランプリ(文部科学大臣賞)を受賞した。
――本にも書いていますが、僕にとって海士への移住は、社会システムへの問題意識から来ています。トヨタにいて、ロケットをつくるという自分の夢をかけた暮らしを捨ててまで海士に来たのは、海士の小さな社会の居心地の良さに惹かれ、ここで新しい社会のカタチを作れたら面白いと思ったからでしたね。悠くんはどうだったのでしょう?
岩本:僕も海士に来た理由は、今の社会システムへの問題意識からだった。時代の流れとして、持続可能な社会へ向けて僕たちが変わらないといけないと感じていたときに、海士町から声をかけてもらった。
そして学生の時からの友達に誘われて「AMAワゴン」という企画で、海士の子どもたちに“出前授業”を行ったことが縁で、「この島に来て人づくりからのまちづくりをやらないか」と誘われた。出前授業はいろんな学校や大学でやらせてもらっていたので、そのうちの一つみたいな軽い気持ちで来ていた。まさか移住してしまうとは思っていなかったね。
――なぜ海士だったんだろう? 悠くんは世界中を回って『流学日記』を書いて印税を使ってアフガニスタンに学校を作ったりしている。世界に羽ばたいていく人だと感じますが?
岩本:ひとつは「時の利」。海士町は、人口減少、超少子高齢化、財政難という、これから日本社会全体が直面していく重要課題の最先端にあった。今ここでの課題を解決していくことは日本の未来を切り拓くことに繋がっていくと思った。そして、ちょうど海士町自身が危機感の中で変わろうと動き出すタイミングにあったからだった。
二つ目は「地の利」。島という、海によって外界と隔絶された“半クローズド”な空間性と、小さくてもその中に社会システムがまるごと入っているという完結性により、海士町は社会の縮図に見えた。そのため、「ここでの地域づくりが持続可能な社会づくりのモデルになる」と思えた。
三つ目は、「人の利」だった。地域への想いや志を持ちながら、異質なモノを受け入れられるキーマンが海士町にはたくさんいた。この人たちとだったら一緒にやれそうだと感じた。
この三つの「利」の交差点にあって、海士町が求めているものと、僕ができること、そしてやりたいことが重なっていると感じたので、移住を決めたね。
――なるほど。では今の仕事について、教えてください。
岩本:僕らは隠岐島前高等学校の魅力化事業に取り組んでいます。その肝は、今までデメリットだとされてきたものを、強みと捉え直すこと。巡の環とも共通する部分だと思うけど、どう発想を転換するかを考えるところに、「よそ者」の役立てるチャンスがある。
そもそも島前高校は少子化の影響で存続の危機に瀕していた日本で最小規模の高校だった。しかし、規模が小さいということを言い換えれば、一人ひとりを大事にできる超少人数指導ができるという強みだ。学校の施設や設備が充実しておらず、教員も少ないのであれば、「島全体が学校だ」という発想に転換して、地域の力を学校の教育力に変えていけばいい。地域の人たちに「先生」として学校に来てもらったり、子どもたちがまちづくりに参画することで学ばせてもらったりする中で、「島まるごと」の教育環境づくりを進めていった。
――この島の弱みも視点を変えると、教育としての強みになるということですね。
岩本:コンビニすらない離島という不便で不自由な環境だからこそ、忍耐力や粘り強さが育ち、限られた資源の中で、あるものをうまく活かして豊かに生きていく知恵が身につきやすい。そして、課題が多くある場所だからこそ、人との繋がりの大切さを感じ、協働力や感謝の心が芽生えやすく、日々の問題解決を通して骨太さや人間力を鍛えるのに絶好の場所だと言える。
こうしたデメリットを逆に「売り」にして、全国から意欲ある子どもたちを募集する「島留学」も開始した。多彩な能力や多様な視点を持って全国から入学してくる子どもたちが、島の子どもたちに刺激を与え、学校の活性化が進んでいる。
こうした成果は、島前高校への入学希望者数の増加や難関大学への合格実績といった数値だけでなく、卒業後の生徒たちの姿に如実に表れているね。
――実際に羽ばたいていった生徒たちにどんな変化が出ているのでしょうか?
岩本:たとえばこの春、「30歳で島に戻り、町長になってこの島を日本一幸福度が高い町にしていきたい」「将来、人と人を繋ぐ『ヒトツナギカフェ』を開き、私の好きな“食”を通じて、町をもっと元気にしていきたい」などの想いを持って東京の大学へ進学していった卒業生たちは、自分の夢に近づくようなアルバイトや社会活動を見つけ、さらにその後は海外に出て、北欧の地方自治や、フランスやイタリアの食文化を学びたいと頑張っている。「将来は海士に新しい産業をつくりたい」と経営学部に進学した一つ上の先輩は、島と東京を繋ぐ人材ビジネスを構想し、ビジネスプランコンテストで入賞、この春には豪州で地域活動を体験してきたとのこと。先日も島と海外をつなぐイベントを実施していた。
こうした卒業生たちの姿が、学力だけではなくて人間力や志も島でしっかり育てられるという証しになっていると思う。
――僕たち「巡の環」は、社員全員が「よそ者」で構成されていながら「島とともにある会社」であるという、言ってみれば不思議な会社だけれど、同じく「よそ者」として活躍する悠くんは、僕たちの活動についてどう思いますか?
岩本:トヨタにいた阿部くんにせよ、東京でWebデザイナーをやっていた信岡くんにせよ、「都会センス」を持って海士に来たからこそ、海士の風土や文化を大事にしながら、それらを活かして新しい仕事をつくっていくことができるんだと思う。僕は卒業生たちにもそうなってほしいと思っている。島のセンスに加え、都会やグローバルなセンスも身につけ、将来的には地域に還り、持続可能な地域社会のつくり手になってほしいと願っている。
あと、巡の環のすごいところは、地域への馴染み方だと思う。島の人たちの中にしっかり入って仕事をしているところ。だから、彼らの「島の学校づくり」に地域の人たちが喜んで協力する。巡の環の存在に僕もとても良い刺激をもらっている。
将来的には僕らがやっている魅力ある「高校」づくりと、巡の環の「学校」づくりを連携させることができれば面白いね。
――ぜひやってみたいですね! 僕たちの学校づくりは、島の学びを外に発信することで、島内の力を共に高めていく仕組みづくりでもあります。そこでは悠くんの言う「人間力や志」の価値を、何よりも僕たち自身が感じ続けています。連携できれば、また新しい島の未来が見えてきそうだ。
今回は、ありがとうございました!