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勇木史記(ゆうき・ふみのり)
1980年広島県生まれ。奈良教育大学大学院教育学研究科(修士課程)美術教育専攻美術専修を修了後、陶芸家になることを決意。2008年より海士町にて「隠岐窯」を構え、陶芸家として制作を続けている。

 

勇木史記さんは、海士で唯一の陶芸家。海士の土を使って、自分の窯で作品を作り続けています。勇木さんも、Iターンで海士にやってきました。島の若い世代として、そしてIターンの陶芸家として、島で生きる自分の未来をどう捉えているか、お話を聞きました。(聞き手:阿部)

【すべては凛々しき陶道のために】

 

――まず、勇木さんの陶芸との出会いについて教えて下さい。

 

勇木:陶芸との出会いは大学の頃です。奈良の教育大学に通いながら文化財に触れていく中でやきものに出会う機会がありました。やきもののことは本当に何も知らなかったけど、やきものをやってみるうちに、だんだん自分自身の心が生き返ってきたような気がしたんです。

 

――芸大とかではなくて、教育大学に通いながらだったんですね。とはいえ、人生を変えるほどに陶芸に惹かれた背景にはどんなことがあったんだろう?

 

勇木:陶芸家の精神面に強く惹かれたことかもしれません。陶芸家の道を志して大学院に進んだときに出会った教授の生き様がとてもかっこよかったんです。

「水がなかったらどうすればいいか。簡単な話だ。穴を掘ればいい。そしてメートルくらい掘って水が出なければ、もう一度掘ればいい。回目に掘って、やっと水が出てきた」とその教授は諭してくれました。水が欲しければ手を動かして、穴さえ掘り続けていれば、結果は自ずとついてくる。陶芸の世界はそういうものだということです。なんてシンプルでかっこいいんだろう、と感動したんです。これが陶道を進む人の凛々しさなんです。

 

――なるほど、なるほど。

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勇木:それに、やきものは、自分が粘土で作ったものが、人の力では及びもつかないほどの高い温度の窯で焼き上がったときに、自分の手の届かない美しさや強さを宿して出来上がる。そのとき、自然の力ってすごいな、と思える鮮烈な感動があるんです。

 

【海士と陶芸をつないだ憧景】

 

――そんな陶芸と、海士を繋いだものって何でしょう?

 

勇木:まず、海士に移住したのは8年前です。おばあちゃんが海士に住んでいて、幼い頃よく来ていたのを思い出して、自分が好きな陶芸を一生かけてやるんだから、自分の好きな場所でやろうと思い立ってこの地に自分の窯を持ち、海士の土を使って陶芸をすることを決意しました。25歳の頃です。今は妻の香織さんと歳の娘、汐里とともに、海士の宇受賀にある古民家に住んでいますね。

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――陶芸作家にとって海士というのは恵まれた環境なのでしょうか? 海士にはどんなモチベーションで来たんだろう?

 

勇木:僕は就職をせず、信楽にある窯に弟子入りして、陶芸家としての自分を磨くべく、陶芸活動に入りました。でも、2週間くらい経ったときに、ふと気づいたことがありました。自分のやりたい陶芸の道に進めて、環境も最高なんだけれども、生き方として僕はちゃんと納得できていなかったんです。もっと自分に真っ向勝負で陶芸に向かいたい、と気づいた。技術ではなく、生き方として陶芸に向かわないと挫折する、そう感じた僕が出した結論は、いずれは自分の好きな場所で、自分の好きな生き方で、陶芸家としての自分の人生に挑むということでした。

 

そんなことを思い続けていたある日、当時の師匠と雑談させていただける機会がありました。そこで僕が、思っていたことのすべてを伝えたところ「早い者勝ちだから、すぐに行ってしまいなさい」と潔い返事をいただき、僕は信楽の窯を後にしたんです。

そして選んだのが、海士だった。

 

――でもその選択って、やっぱり一般的な駆け出しの陶芸家としては異色ですよね? 周囲はどんなふうに感じていたんでしょう? 

 

勇木:周囲として挙げるなら、今は妻になった香織さんですね。僕が「どうする?」と聞いたら、「あんたは夢見とったらいいわ、私が現実見たるわ」と、まるで「何か文句ある?」みたいに言われて(笑)。

 

――かっこいいなあ(笑)

 

勇木:そのまま二人で海士に渡って結婚して家庭を持ち、僕は陶芸家に、妻は海士で就職しました。2005年の頃です。阿部くんがちょうどキリマンジャロに登って、トヨタでエスティマを出した頃だね。この時の僕は窯の名前をどうしようかと考えていた。そのときに、大学院で僕に陶芸の世界の素晴らしさを教えてくれた教授に「隠岐窯」と命名いただき、同時に「陶道人生」という言葉をいただいた。この言葉は、今も作業場に入ってすぐのところに貼ってあります。

 

 
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陶芸の世界というものは、一瞬で全てが決まり、究極の一瞬を生み出すために全てを決める。非常に美しくできているこれらの作品も、やはり「決め」に欠けるものは、ほとんどすべて割ってしまうそうだ。
 
 

【島の陶芸家として生きること】

 

――実際に海士に来てみて、どう感じましたか? 作風とかは変わりましたか?

 

勇木:僕も阿部くんと同じで、海士に逃げで移住したわけではない。攻める気持ちで来たんです。そしてそういうスタンスで来るのに、海士は本当にいい島だった。たとえば僕は、未来を考えるためには過去を大事にしないといけないと根本的に思っている。時間は繋がっていて飛び超えることはできないからね。だから、古いものを本当に大切にしないと、本当に新しいものは生まれてこない。常に新しいものだけを見ていたら、いつの間にか自分が見えなくなってしまうものです。

過去と未来、両方を見つめることが、陶芸家としても、僕たちの未来としても大事な考え方だと今は感じるようになった。作風としての変化はそこがいちばん大きいですね。

そして海士はまさに、古来の日本の文化や風習を大切にしながら、自ら新しく変化していこうとしている。そんな島だと思います。

 

――勇木さんは海士で唯一の陶芸家になっているわけだけれど、島の方々とはどんな話をしたりしてるんですか?

 

勇木:今では「お前が人間国宝になったら、この茶碗も高くなるか?」と島の人にも気にかけてもらえるくらいの温度感ですね。僕は「もちろんですよ」と応えて、それもひとつの励みにしています。とはいえ、この家も家庭もそうだし、島の人もだけど、誰かが手を差し伸べてくれたことに、きちんと作品で返せたらいいな、といつも切に思っています。ただのコミュニケーションとかきれいごとではなくて、生き方で返していきたい。初心を忘れず、死ぬまで手を動かして作り続けていれば、誰かが必ず認めてくれるというスタイルでこれからも陶道人生に向かっていきたいと思ってるよ。

 

――巡の環は勇木さんにとってどんな存在なんだろう?

 

勇木:阿部くんと出会ったのは、「島に陶芸家がおるらしいぞ」と僕のことが噂になっていた頃だったね。とはいえ僕は、引きこもって作品作りに没頭していたので、あまり地域の方との繋がりはなかった。そこに阿部くんは、たまに五感塾に呼んでくれたりして、いろんな出会いをくれた。その姿を見て、単純にかっこいいなって思った。海士で活躍する場所を自分でつくっていっている姿には刺激を受けた。また、京都の『草喰(そうじき)なかひがし』の中東久雄さんとも僕を繋げてくれて、今年初個展を京都で開くことにもなりました。

 

――いろんな可能性を海士から発信していきたいよね。それは起業とかそういうものだけではなく、芸術であってもいいし、思い切り多様であっていい。結果的にそこからこの島の未来は変わっていくはずだ。

 

勇木:島の未来、社会の未来を考えるのは大変なことだと思うけど、気持ちとしては旅行の計画を考えるような気分がいいんじゃないかと僕は思うね。旅をするのに自分はこうありたい、そんな思いだとか目標を立てているときって、すごく楽しいんですよね。結局、その気持ちが未来をつくり、支えていくんじゃないかと思っています。

 

――いっしょにがんばっていきたいね!

 

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2013年2月27日 18:55