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松島宏佑(まつしま・こうすけ)

1986年宮城県白石市出身。物理学科卒。大学卒業後の2010年5月に海士町へ移住し、(株)巡の環に入社する。2011年の東日本大震災直後、地元宮城県へ帰郷。亘理郡亘理町、山元町を舞台に、継続的に復興支援を行うため(株)巡の環東北支部を設立。その後、2012年3月に、一般社団法人ふらっとーほく代表理事として独立。現在も活動中。

島の学校「めぐりカレッジ」

僕たちは、巡の環の起業とその事業展開で培った「島とともにある会社」のノウハウを生かし、「地域コーディネーター」の養成を目的とする教育研修講座「めぐりカレッジ」を新事業としてスタートアップし、現在1期目の中級コースの事前合宿を終えました。『僕たちは島で、未来を見ることにした』では、僕たちが島の学校をつくるために、どんなことをしてきたかをお話しましたが、この「めぐりカレッジ」こそが僕たちがつくった島の学校の1つなのです。

 

地域の課題解決に求められるものは、その土地の価値を土地の目線で敬意を持って理解できる「いなかセンス」、価値を観光や物販などのサービスに翻訳・発信する「とかいセンス」をバランス良く備えた「地域コーディネーター」の存在です。都会が心の拠り所に田舎を求めるように、田舎も都会のビジネスセンスなどを必要としているのです。

現在、地域コーディネーターとして地域外から入ってくるコンサルタントが多く活躍しています。最先端の取組みに精通し、アイデアも持っているのですが、その土地に住んでいないために、最終的に自分事になれずに越えられない「地域の壁」があります。地域外の人間だけでは、たとえ成果を出せても一過性のものになることが多く、せっかくいいアイデアや、やる気のある人が地域に集まっているのに、もったいないと感じることが多いです。「いなかセンス」と「とかいセンス」を備えた地域に住むコーディネーターと協働できて初めて、地域は前に進むことができるのだと思います。

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ここで僕たちが巡の環の事業展開を通して得たノウハウを提供できないかと考えたのです。

とはいえ、地域の課題解決というものは栄養ドリンク剤のように、ノウハウを吸収すればすぐに効果が期待できるというわけではありません。地域それぞれには固有の文化、特性、さらには習わしなど様々な要素が複合してできています。それは今や忘れ去られつつある日本人の実像であり、残していくべき、生きた文化遺産なのです。


よって、僕たちが提供できるのは、いかにして地域の方々と目線と合わせ、共に行きたい未来を模索するかという点における、海士での実践から得たノウハウです。僕たちがいかにして「海士の人」になっていったか、そのプロセスを追体験していただくことを通して、地域への接し方、理解の仕方、そしてそこから事業を企画して発信していく方法などを学んでいただくことができ、それが自分の地域での課題解決に繋がります。

そしてただの座学ではなく、実際に海士に来ていただき、海士そのものを体感しながら学ぶことができる点が特色です。

 

「めぐりカレッジ」の2泊3日の初級コースでは地域を見る眼差しを短期集中的に学べ、4月からスタートした半年間の中級コースでは海士で合宿を行いながら、理論と実践を学ぶことができます。理論については、参加者が自分の地域に持ち帰って実践することができるように汎用性を持たせるとともに、地域に帰ってからも弊社のサポートが受けられる用意があります。

田舎は都会より遅れているだけではなく、大切な日本人の精神文化が残っています。グローバル化が叫ばれる今だからこそ、未来を考えるためにもう一度田舎に残っている日本人らしさを見直すべきではないか、という問題意識を持っておられる方々の参加を心からお待ちしています。

 

また、「めぐりカレッジ」では、今まで巡の環にいたスタッフが〝卒業〞し、その後に故郷などの別の地域へと移住、そこで起業などを通して活躍するプロセスを検証し、カリキュラムに反映しています。今回はその1つのケースとして、『僕たちは島で、未来を見ることにした』にも掲載されている、松島宏佑の事例をご紹介します。

 

松島宏佑は、2010年に海士に移住して、約1年間巡の環で仕事をしていました。そして震災後、故郷である宮城県へ戻り、亘理町を拠点に巡の環の東北支部として活動を開始しました。次いで2012年の春、一般社団法人「ふらっとーほく」を設立し、被災地で防潮林づくりをはじめとした、様々な取り組みを行っています。いわば〝卒業生〞の松島宏佑が、巡の環で学んだまちづくりの本質についてお話します。(阿部裕志)

 

 

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僕は今、『ふらっとーほく』での活動として、被災地の地域の方々といっしょに町内の一部の沿岸部の未来の地図をつくっています。被災地では町ごとすべてが失われたようなところも少なくありません。そして震災が復興フェーズに入って以降、「町をどうするか」、つまり沿岸部をどのように復興させていくかが大論点になっています。そこで僕は、地域の人々と一体になって、グランドデザインをつくりたいと提案し、自治体から委託を受けました。

現在、定期的に地域の人々と集まり、残すべき歴史や文化、伝統をヒアリングしながら、実際に地図をみんなで描いたり、必要なものが何かを議論したりするワークショップを通して、「まちの復興のために何かしたい!」という強い意思を持っている地域の方々と、つくりたいものをいっしょにつくっていくお手伝いをしています。意外なことに、住民が主体的に自治体と連携してグランドデザインを考える仕組みをつくったところは他にはなかったんです。実際に僕たちがつくったグランドデザインを、実施計画にして着工するまではまだ長い道のりですが、未来のまちづくりにきちんと活かせるよう、行政にも働きかけて準備を進めています。何よりも、参加してくださっている住民の方々に「これからがとても楽しみです!」といつも言っていただけるのが喜びです。まだまだ実際の都市計画になるまでは時間がかかりますが、被災地で希望のある未来の地図を描くことは、少しずつ成功しています。

 

僕は元々東北出身で、その閉鎖性は誰よりも知っていました。じわじわと衰退していく町をたくさん見てきたのです。そうした背景を知っていたからこそ、震災復興をある意味機会として捉え、外の人が歴史伝統文化を重んじる地域社会に新しい血となって入り込み地元の血と混ざり合って新しい未来ができていく可能性を感じていました。その中で僕が〝人繋ぎ〞をすることで、今まで起こり得なかった新しいことが生まれて復興に結びついていくといいなと思っていたのですが、最初はやはり地域の方のお叱りを受けました。本当に「出て行け「」あなたは被災地で被災者を食い物にしにきたのですか?」と言われるほどのお叱りを受けることもありました。どれだけ考えて動いていっても、地域の文化、歴史、被災者となった人々の思いを受け止めきることができなかった。でもそのとき、巡の環で学んだことが本当に生きました。

 

巡の環は、離島という特殊な立地条件の地域にありながら、社員全員が「よそ者」で構成されている会社です。それでもうまくやってこれたのは、徹底的に地域の人とともに歩もうとする姿勢を貫いているからです。どんなときでも地域の方々の声を聴き続け、共に歩む、そして「共闘」する姿勢をとる。もちろん海士の人たちが、地域として戦い続ける土壌があったことも要因としてありますが、この姿勢から学ばされたことはとても多いです。そして東北に戻り、海士町の地域としての強さを何よりも強く感じたのは、どんなことでも地域の人たちの〝総動員〞態勢で臨めることなんです。行政主導で何かを行うのではなく、あくまで地域の人たちが、思いを共にして、ボトムアップで物事に取り組める。みんなが繋がっているということを、すごく当たり前のように感じられること、これが海士の強みなんです。そして巡の環はその中にあって、地域の人たちとのひとつひとつの信頼を大切にして、仕事をつくり、町をつくっていく。このひとつひとつの小さな信頼から、全体を構成していくことが何よりも大切なんです。上から何かを主導的に動かしていくトップダウンではなくて、個の強い信頼を、大きな力にしていく。それがまちづくりには何よりも大切な要素です。

 

僕が東北で住民の人たちに怒られて、孤立していたときは、ついつい自分の理想だけで走りすぎていたんだと思います。巡の環で学んだことを思い起こし、気持ちを切り替えてプロジェクトを進めていきました。すると、いつも参加してくれる方が一人現れたんです。その代女性は、津波で被災してしまった。それに元々まちづくりには興味が薄い方でした。しかし、丁寧な対話を続ける中で、いくつかの変化が起きました。

その方は今年の月、月にずっとプロジェクトに参加してくれて、地域の人に声をかけたりして、どんどん主体的に動いていってくださったんです。それからというもの、一人、また一人と参加者が増えて、どんどん広がっていった。ひとつひとつの信頼を丁寧につくっていくことが、いかに大きなうねりを生み出していくか、それがどんなに大切かを再確認することができました。

 

巡の環は僕にとって本当に学校でした。巡の環のノウハウが、いかに地域コーディネーターを担う人たちにとって大切なことか、僕は卒業生として東北で誰よりも実感できました。学びの宝庫である海士町、そして巡の環がこれからの地域コーディネーターにとっても、学び舎になることを願ってやみません。

 

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2013年5月 1日 17:24